それにしても、モーツァルトはいい。
ベートーベンには、宴会の席上で、さほど盛り上がっていないと見えるテーブルにわざわざやって来て、
「盛り上がってるかい?」
と、いちいち聞いてくる、お節介な幹事みたいな気配が感じられて、げんなりする。
私のいる席が、しみったれていたって、いいじゃないか。
── そうそう、ムリしないで。こっちはこっちで勝手にやってるから、キミもキミで、勝手にやっててちょうだい。
モーツァルトは、歌詞のない音楽で、ハッキリそう云っている。
ピアノなら、アルフレッド・ブレンデルの弾くモーツァルトが好きである。弾くというよりも、叩いている。ソナタ11番トルコ行進曲付なんかを聴くと、根拠のない笑いが込み上げてくる。
レクイエムなら、どこかの教会で録音した、オイゲン・ヨッフムの指揮がよい。
「魔笛」なら、ゲオルク・ショルティ、トスカニーニの「ジュピター」。「フィガロの結婚」、バイオリンとビオラのための協奏交響曲なら… と、数え上げれば、きりがない。
同じ曲を奏でても、指揮者や演奏者によって、モーツァルトは変わっていく。たくさんの解釈がされる、たった1つの楽譜が、この世にはあるのである。ヒト、ひとりの存在と、似ているように感じるのは、気のせいだろうか。
ディベルティメント、という器楽曲の一様式がある。これは、イタリア語で「気晴らし」「娯楽」「暇つぶし」という意味を持つ。深刻な内容は極力避け、明るく美しい楽想を中心に、軽いタッチで曲を仕上げる、という手法だ。
こんな方法で、人生も一丁、仕上げられたらなあ、と思う。
そして、節度を保ちながら、それぞれ、ひとりひとりが勝手にやって、仲良く、みんなと暮らしていけないものだろうか、と。