音楽とともに

心に入って来た音楽を〈共有〉できたらと思います。よろしかったら、おつきあい下さい。

キツネササゲリュウノヒゲ

 7、8年前の、鬼無里村。「もみじ茶屋」での、下田逸郎ライブ。
さだまさしみたいに、しゃべったほうがいい? 唄ったほうがいい?」みたいに下田逸郎はぼくらに訊き、唄ったほうがいい、という意味の拍手があって、下田さんは唄い続けた。

 ライブ後、茶話会のような、下田さんを交えての飲み会。
 ぼくの目の前、真ん前に座っていた下田さんに、なんとなく話し合った後、
「下田さんのアルバム、ぜんぶ持ってるんですけど、1枚だけ持ってないのがあるんです。」とぼくは言った。


「何?」と訊かれ、「キツネササゲリュウノヒゲ」と答えた。もう、下田通信所でも完売で在庫なしだった。
「あ、いいよ、送るよ。今夜中に住所教えて。今夜でないとダメよ。忘れちゃうから」


 下田逸郎はそんなふうに言って、トイレかどこかに立った。帰ってきた下田逸郎に、ぼくは住所を書いた紙を渡した。


 数日後、届いたのが、このCDだった。封筒の表に書かれた宛先も、封の裏に書いてあった「下田逸郎」という名も、下田逸郎直筆のものだった。
 この封筒とCDは、だから特別なのである。

 松山千春が、「よくやった」と評価したこのアルバムは、まったく淡々としている。あらゆる音、流れてくる空気まで、シンプルなのである。
 下田逸郎が、下田逸郎に向かってギターを弾き、唄い、つくったように思える。シンプルだからこその「深み」が好きである。

 このアルバムの効能・効果は、

『想像力不振、跳躍力減退、生命閉塞

 情報肥満感、会話虚弱、
 消耗性日常に伴う個人崩壊

 微熱性欲望のもつれに伴う愛情障害

 胸のつかえ、友情のもたれ、魂のしびれ

 などの場合の栄養補給』

 と、漢方薬に似せたCD入れの袋に、記されている。

大好きなミサ曲、その演奏。クーベリックさんのモーツァルト

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一時期、半結跏趺坐して瞑想に凝っていた。

その時、よくこの曲を聴いていて。(「ながら瞑想」ですね)

呼吸を意識して、頭の中のいろんな動き… これをしなきゃ、あれをしなきゃ、あああの時は、その時は、と働く頭はそのままにして… この身体を出たり入ったりする呼吸、この流れに沿って…

 

生まれてから今まで、ずっと「呼吸」をし続けている、この呼吸さんをみつめていたら、涙が出そうになった。

けなげで。あまりにも、けなげで。

 

ずっと、止まることなく、ずっとこの繰り返しをし続けてくれて。

 

鼻から出ていく息は死のようで。

また入ってくる息は、生まれるようで。

私の身体を行ったり来たり。

ああ、生まれて、死んでを繰り返しているように思えて。

 

「今」を生きる…

この呼吸をみつめることが、それなんじゃないか、と。

 

だって頭の中はいつも未来のこと、過去のことに捉われているんだから。

 

よく、呼吸、みつめてました。

「今を生きる」時間。

 

無限の容器

 それにしても、よく生きながらえてきたもんだ、まったく、奇跡だよ!
 わたしの役割は何なのかね? 生きて、死ぬ。それならできる!
 そのあいだに、何をするべきなのかね?
 何のために生まれてきたのかね?
 目的を持たされず、つくられた存在、それが人間らしいが!
 モノである身体に、モノでないものが入っていて。
 見つめることのできないものを見つめようとする…
 
 クラシックの指揮者にカラヤンというのがいるが、どうも彼はつかみどころがない。
 ウィーンフィルベルリンフィル、「あるもの」の力を、すでにあったものの力を引き出した── 音響効果をいかに引き出し、いかに美しい音に聴かせるか── いわばビジュアル効果、あるものの魅力の引き出し方、魅せ方にひどく長けた人だったのではないか?


 彼から、彼という、彼自身というものが、どうも感じられない。「彼の指揮だから」という先入観をもって聴くわけだが… そして聞けば、うん、彼の演奏だ、と納得するわけだが… 音がそう聴かせるのであって、彼というもの、彼がそこにいる実在感のようなものが、とてもとても薄いのだ… いるのは分かるが。ほんとうにいるのか? と雲をつかむような…

 大きな存在というのは、計り知れない。どこまでという際限がない。無限の容器だ。
 確かにカラヤン、というだけで、カラヤンだったんだろう。こちらは、カラヤンというだけで、カラヤンだとして聴く。そしてやっぱり!となる。ほんとにわかってんのかな、と、どこか空虚なような気にもなる。空虚というのも、無限なものだ… 存在しているのか、していないのか… 形容し難い、無限にすべてを受け容れる…

 

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