まずあの歌劇を初めて聴き、CDの対訳を読んだ時、何か勇気をもらった。
とにかく大悪党なのである、あの主人公は。
だが、男らしい、雄々しいといえば雄々しい、いさぎよい、あっぱれな人生ではなかったか。
そう思わせるのは、やはりあの騎士長の亡霊との問答であった。
たとえ地獄に堕ちようとも、悔い改めない。何ともリッパな覚悟、たいした根性であった。
あのドン・ジョヴァンニの姿、そして幕が下りるまでの沢山のアリア、二重唱や三重唱の美しさ、血流の止まることのない音楽に、すっかりトリコになってしまったのが二十歳の頃。
あの頃は、自堕落したかった。凶悪な人間、とまでいわないが、自分の悪行の代償もしっかり払い、自分でオトシマエのつけられる、あのドン・ジョヴァンニのようになりたいと思った。
すると、何だか元気になれる気がした。
あんなすばらしい大悪党にぼくはなれなかったが、なれないことを知っていたから、なろうと思うことができたと思う。
しかしあれから三十年、今また見返せば、また違った感慨をもつ。
あれは喜劇ではないか?
フィナーレ近くの、ドンナ・エルヴィーラとレポレロが騎士長と出くわすまでに流れるアップテンポなリズム。
マゼットとツェルリーナの、一連の滑稽な物語、浮気した自分を「ぶってよ、ぶってよ、目をくり抜いてもいいのよ」と朗らかに歌う女のあざとさ(でも可愛い)、ケガをしたマゼットに「お薬はここにあるわよ」と自身の身体を薬として捧げるように歌うなまめかしさ、そしてあっけなく元気になってしまうマゼット。
冒頭で父を殺されたアンナに、復讐して!といわれ、「復讐します!」と手を上げて宣誓するドン・オッターヴィオ。
またしても女をたぶらかそうとするジョヴァンニの「窓辺においで」はやはり美しいし、「行きましょう、行きましょう!」と新婚なのに浮気する気満々になるツェルリーナはやはり笑える。
「カタログの歌」を得意げに歌うレポレロは愉快だ。この召使いは、主人公の分身であるという、キルケゴールの言を思い出さずにはいられない。全体に、とにかく暗いが、笑える場面が結構ある。
これは喜劇だ、という見方ができるようになったのは、年の功と言える。
二十歳の頃は、絶望に向かって喜んで一直線、その気構えだけを持ち、あの凄惨なフィナーレのために、まだかまだかと聴いていたものだった。
だがこの歌劇は暗いだけでなく、ラストに向かって笑える場面が沢山あったのだ。
つくづく、YouTubeで視聴できる日本語訳付のフルトヴェングラーのドン・ジョヴァンニがすばらしい。惜しむらくは、ツェルリーナがもうちょっと若ければと思うが(失礼!)。
いや、冗談でなく素晴らしい舞台です、これは。