音楽とともに

心に入って来た音楽を〈共有〉できたらと思います。よろしかったら、おつきあい下さい。

「陽のあたる翼」

 

 先日、YouTube下田逸郎さんの曲を聴いていた。自動的にサイドバーに出てくる関連動画を何となく見ると、もう廃盤になった「陽のあたる翼」というアルバムがアップされている!

 ありがたや、ありがたや。

 これは下田さんの初期のLPで、かなりの名曲揃いのアルバムなのだ。

 まだ10代だった頃、銀座のソニービル辺りの中古レコード屋でこれを発見した時、歓喜に溢れたものだった。が、聴いてみると、そんなでもないな、と感じた、当時は。

 だがだが、あれからン十年経った今、当時とはまったく違うように聴こえる。

 イイのだ。当時、ヨクナイと感じたものが。

 何が変わったのか? レコードは何も変わっていない。変わったのは、ぼくだ。

「さりげない夜」から入ったぼくは、それを大変気に入っていた。こんな歌を歌う人がいるんだ、と、相当なショックを受けた。で、あの「さりげない夜」のような内容を、「陽のあたる翼」に求めていたのだ。

 だが、自分の求めていたのと違っていたために、そんな好きになれなかった、というアルバム。

 下田さんは、東京キッドブラザーズというミュージカル劇団の音楽監督をしていたから、そのメロディーラインは説得力があって、ぼくにはとても美しく感じられる。

 ニューヨーク公演で「黄金バット」という劇が大ヒットし、しかし劇団員のホームシックにより一団は帰国してしまった。その余韻冷めやらぬ数年間のうちに、製作されたアルバムだと思う。

 音楽監督だった下田さんはタイムス紙でその才能を絶賛され、「天才」といわれたらしい。

 だからまだ初期のこのアルバムは、ミュージカル的な匂いがしないでもない。

 音が大袈裟で、仰々しく聞こえて、「さりげなさ」がなかった… これが、ぼくが「失望」した理由でもあった。

 が、ン十年過ぎた今、当時の下田さんの「思い」のようなものが、やっと理解できるようになったのかもしれない。

 1st.アルバムで下田さんは、「私は天才の道でなく 神への道を歩きます」と書いていたが、その通り、不条理みたいなところに自分から身を置いて、独自の音楽活動を続けてきたのだと思う。

 見習わねば、と思う。ぼくは天才でも何でもないけれど。

Sweet Box

youtu.be

 

トヨタに出稼ぎに行った時、名古屋駅から工場までの会社バスの中、カーラジオから偶然聞こえてきた音楽。

Everything's Gonna Be Alright,

Everything's Gonna Be Alright …

 

初めての一人暮らし、寮生活。

不安満載だったけど、この曲、沁みた。

G線上のアリアのリズムが。

 

カラヤンとモーツァルト

 ヘルベルト・フォン・カラヤンの指揮する音楽の、何が素晴らしいのか、よく分からなかった。
 よっぽど、トスカニーニフルトヴェングラーブルーノ・ワルターのほうがしっくり来ていた(モーツァルトに限る)。
 しかし、広告批評家の天野祐吉カラヤンについて語る「カラヤン~時代のトリック・スター~」というテレビを見て、カラヤンの凄さを知ったというか、見方が変わったのだった。

「レコード録音に力を注いだ」ということである。

 昔々は、いわば貴族的な上流階級の人々が、演奏会に足を運んだそうである。「ナマの演奏こそが芸術」であったとか。
 しかし、レコードの出現、さらにはCDと、音楽という芸術が大衆化されることを、カラヤンは予知していたのだろうか。
「良い音だけを録音する」ことへの拘りたるや、とてつもない情熱と信念があったようだ。

 そしてやはりテレビで見たのだが、モーツァルトも、音楽を大衆化させた人であったらしい。当時オペラはドイツ語でつくらねばならない慣習があったようなのだが、観に来た人たち、つまり民にも分かり易いように、イタリア語だかでそのオペラをつくったとか。

 宮廷にかかずらう、限られた人たちへの音楽ではなく、「市民のための、わかりやすい音楽、現代でいうポップス的な音楽を」という視野をもって、モーツァルトは音楽を奏でていた時期もあったのだった。

 さて、翻って、この国の政治の世界。
「民にわかりやすいように」などとは、まったく無縁である。
後期高齢者医療制度」の仕組みの細かなところなど、ほんとうに理解している民がいるのだろうか? 少なくとも、ぼくにはてんで分からない。


 そしてタチの悪いのは、いかにも必要な制度であり、民にとって悪くないかのように政府が云ってのけるということだ。詭弁を弄すにもあたらない。「民のことなんかよりもね、この政治界にかかずらうワタシたちが、ワタシたちを守ることが、まず第一なんです。」そんな心根が見え見えである。

 政治を、大衆化できないものだろうか?

(2008. 4. 30.)